<目次>

日本史嫌いの講義 第2回(原始)
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日本史嫌いを克服<弥生時代>
この時代の特色は本格的に農業や青銅器、鉄器などの金属器が大陸から伝わってきます。
この農業めちゃくちゃ流行りました。何だったら今も米を食べていますよね。米ってめっちゃ古い・・・。この時代の米のすごいところはある程度、計画的に生産できるところでした。
計画的に生産できるので人々の生活は安定して、長生きするようになります。
やっぱマンモスとか、追いかけても命の危険がありますからね・・・米だと安心です。
さらにこの米のすごいところは
大陸→九州北部 → 西日本 → あっという間に青森まで広がったところです。
<稲作時の道具>
さ~米がとれるようになったら次は道具の開発です。
道具をレベルアップさせればさらに収穫アップ!!
最初は低湿地の悪条件化の湿田(しつでん)という田んぼで米を作っていました。ただあまりうまく育ちませんでした。そこで水はけの良い感じの乾田(かんでん)という田んぼで米作りをすることになります。
米の種を適当にぶん投げる直播(じか)きをし、出来上がった稲を石包丁(いしぼうちょう)で穂首狩(ほくびかり)をするようになっていきました。
はじめのころは磨製石器で作った木製農具をつかっていました。例えば、耕作用に鍬(くわ)、鋤(すき)、足がめり込まないようにする田下駄(たげた)などがありました。
やがて木製農具から鉄製農具にかわり、生産性は驚くほど向上した。
鉄はやはりすごいですね。
<弥生土器、金属器はどのようなもの?>
弥生土器は赤褐色で薄手で、硬く縄文土器とくらべて高温でつくられていました。
分布は西日本が中心ってのもポイントですね。
あと有名なのが金属器(鉄と青銅器をまとめた呼び名)です。
この時代に銅とすずが混ざった青銅器と鉄が合体し進化すると金属器になります。ノーマルカードからレアカードに進化した感じと同じです・・・。
またこの時代、銅鐸(どうたく)、銅剣、銅矛などがつくられ主に豊作を願うお祭りごとの祭器(さいき)として使われた。
<弥生時代の生活はどうだったか>
弥生時代の人々は水田近くに竪穴住居をつくって生活をしていた。
ところがこんな問題が起こる。
「作った作物があまるとケンカになっちゃう問題」
作ったものは基本的に高床倉庫に保存していました。古代版の冷蔵庫って感じです。
ところが、そのあまった食べ物で村人たちは「おれのだ~」って感じで争いが起きる。
同じ村人同士で殴り合いの喧嘩スタート・・・。
その喧嘩にかった人がリーダーになります。今の時代も同じですね。勝ったものが強者。
すると、今度は隣の村のリーダーが「お前の村の食べ物よこせ~」なんてことを言って襲ってくる。
なんとかやっつけたがまた襲ってくるかもしれない。
そこで人々は考えた。
「なんとかこの食い物を守りたい」・・・そうだ!!!
みんなの心はつながっていた・・・。ワンフォーオール。。。
自分たちの集落をまもるために周りの深い濠(ほり)をめぐらせた環濠集落(かんごう)や、少し小高い所に高地性集落(こうちせい)をつくって防衛策を考えることにしました。
これでいつ敵が来ても大丈夫になりました・・・。
・・・というように
この時代から争いが始まり身分階級が出来上がってきました。強い集落は弱い集落を吸収し、さらに大きな集落になる。そしてまた争いがはじまりさらに大きな集落ができる。
こうした一連の流れからその集落のトップは王と呼ばれるようになりました。
そして、その王が死んでしまうと・・・めっちゃでかいお墓をつくる・・・これが古墳のはじまり
日本史嫌いを克服<中国の歴史書に記された「倭(わ)」という国>
漢書地理志(かんじょちりし)
日本のことを記した最も古い歴史書です。
この文章によると「倭」と呼ばれる日本は100余りの国に分かれて、中国(当時の漢)の支配下にある朝鮮半島においた楽浪郡(らくろうぐん)に定期的に使いを送った・・・らしい。
後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)
これによると西暦57年=(建武中元二年)に奴(な)の国王が後漢の光武帝(こうぶてい)に朝貢し印綬(いんじゅ)をもらったと書かれています。
ちなみに朝貢とは強い国にひざまづいて「洪武帝様、しっかりついていきます・・」的なジャイアンとスネ夫丁な関係です。☆印綬・・・ひも付きの印
さらに、西暦107年に倭の国王の帥升(すいしょう)が生口(せいこう)を160人献上しちゃいます。
☆生口・・・奴隷
この記録書では、倭国では大乱がおこったとされています。
その大乱をおさめたスーパースターは誰か・・・
ずばり邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)
この大乱をおさめたようすが次の歴史書に書いてある。
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)
これによると卑弥呼は30の国の王から認められて、一種のお祈り(鬼道)で民衆を支配していきます。民衆もこのお祈りを信じて行動するってなかなかすごいですね・・・。
卑弥呼は239年魏(ぎ)の帯方郡(たいほうぐん)に使いをおくり金印(きんいん)と銅鏡、
さらに「新魏倭王」(しんぎわおう)の称号をゲットしている。
そして卑弥呼の死後、男の王が国を治めましたが、また混乱に陥(おちい)ったので、卑弥呼の後継者として壱与(いよ)を後継者にたてると、ようやく国の混乱がおさまったとされています。
この時代は女性がめちゃめちゃ活躍しますね。
日本史嫌いを克服「大和(やまと)時代と大王(おおきみ)の時代と古墳」
卑弥呼時代が終わりに向かう3世紀の後半になると、近畿や瀬戸内地方で古墳が出現する。
そして、4世紀ごろには権力の象徴の前方後円墳が大和地方、今の奈良県辺りに現れます。このようなことからこの地名をとり大和時代やヤマト政権と呼ばれる。また、このヤマト政権の王様を大君(おおきみ)と呼びました。
このヤマト政権は鉄資源と先進技術をもとめ朝鮮半島の伽耶(かや)を拠点にしました。その当時の様子を記しているのが高句麗好太王碑文(こうくりこたいおうひぶん)という石碑です。この石にガリガリ文字が書かれてある様子は何ともすさまじい。
ちなみにこの石碑は高句麗の王だった、好太王(広開土王:こうかいどおう)が活躍したことにより建てられたものです。そして広開土王は我らが日本の倭と戦ったとこの石碑に書かれています。
そして最後に5世紀倭の五王が登場する。この登場は中国の歴史書「宋書倭国伝(そうじょわこくでん)」に記録されています。
☆ちなみに倭の五王とは・・・讃(さん)珍(ちん)済(せい)興(こう)武(ぶ)と書かれている。
特に興・・・安康天皇(あんこう) 武・・・雄略天皇(ゆうりゃく)は抑えておこう